今橋です。
「”ウォシュレット”と呼んでいいのはTOTO製だけだ」
「先生、ではINAXで尻を清めるにはどうすれば!?」
「”シャワートイレ”と申せ」
これは我が母校における古典の授業中の会話です。
それはともかく、高度に発達した水道技術と豊富な水資源に恵まれた我が国において、「汚いものは水に流す」という事は至極当然のこととなっています。
それは便に限らず、身体の不浄な部位においてもおなじく言えることです。
我が国では、トイレを出る際に手を洗わない者は、異端者として差別の対象となります。激しく浴びせられる蔑視と罵声はあたかも人権を認めないかの如く、ただ手を洗わないと言うだけでその人物の存在そのものを否定します。なぜここまで日本社会はトイレで手を洗う事へこだわるのでしょうか。 よく知られている通り、インド人は左手を不浄な手とする文化があり、用を足す際は左手を使います。しかしインド人だって右手でケツを拭くこともありましょう。左手だってしっかり洗えば飯も掴めます。そうとは分かっていても、左手で握手を求められればいい気持ちはしないのです。つまるところは、これはあくまで衛生的な理由ではなく、使い分けによる精神的な安心なのです。どんなに殺菌したって、トイレ用ブラシで歯磨きしたい人はいないのです。
日本人もおなじことです。手についた細菌をたかが水道水で濡らしただけで落とせるわけはありません。石鹸で洗えば話は別ですが、毎度そんな事してる人などいません。つまり、トイレで手を洗うとは「自分は手を洗ったんだ」という気持ちを得るための儀礼的行為であると言えます。そしてその儀礼を怠ったものは、穢れを持つものとして虐げられるのです。 この”トイレの儀”に似たものを皆さんご存知のはずです。そう、神社の手水ですね。寺にもありますが、神道に由来するものです。神道ほど生活に根付いた宗教はないと言われていますが、まさかトイレでこれを発見できるとは驚きですね。古代より続く神々の系譜はトイレにたどり着いたのです。天照大神は「トイレの神様」になったのでしょうか。
しかし環境保護が叫ばれる昨今、節水は必然のものであります。水を浴びせたところで手の汚れは変わりません。ならばむしろ洗わない方が水も時間も無駄になりません。皆様のあつい信仰のお気持ちはお察し致しますが、宗教とは時代に合わせ形を変えるものです。バチカンが地動説を認めたように、皆様も「トイレでは手を洗わない」という文化を受け入れましょう。トイレで手を洗うその無駄な数秒で、あなたは何歩前へ進めるのですか。